ひとはどんなときにあんかんじるのでしょう。
このさき天災てんさいきないか。年金ねんきんをもらえるか。

試験しけん合格ごうかくするか。今日きょう仕事しごとはうまくいくか。

ねん仕事しごとがあるのか。

結婚けっこんできるのか。

ローンははらえるのか……

ひとたいするあんもありますね。

おやはんされるんじゃないか。

おっとはずっと自分じぶんあいしてくれるのか。

子供こどもこうはしらないか。

じょうがまたおこすんじゃないか……



なかけい将来しょうらいとうめいだったり、わるいことがつづいたりすると、あんおおきくなるものです。「さきえない」ということにかんして、ひとあんになるのかもしれません。

あんは、きてもいないことを、あれこれわる想像そうぞうするところからはじまります。あんも、感情かんじょうのエネルギーを消耗しょうもうさせ、いかりや自己じこけん感情かんじょうまでこします。


ただ、どんな現実げんじつがやってこようと、それをめてきていこうというかくさえあれば、じょうきられなくてもいいし、ひとからどうおもわれるかはからない。



それでも、やってくる現実げんじつってきていこうとおもえば、あんはあるてい解消かいしょうされます。心配しんぱいしてもしなくても、らいはやってきます。ぶんがいのものにあんをもつかぎり、あんはいつまでもわいてえることはありません。

わたしたちが本当ほんとうおそれるべきは、将来しょうらいではなく、あんそのもの。

あんがって、まえすすもうとするうごきがまることではないかとおもうのです。

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